INTERVIEWインタビュー

第1回 力を鍛える環境をつくる

永松氏は自分を鍛えるための環境を意図的に生み出し、料理人として歩んできたようです。また、与えられた環境に対して自分なりの意味づけを行い、吸収すべきものを貪欲に吸収してきたことも取材を通して強く感じられました。初回は「力を鍛える環境」について示唆に富むお話の一部を紹介します。

 

食アカな人

2020年3月28日、29日 京都『SEction D'or(セクションドール)』にてインタビュー実施

あえて超絶忙しい和食でキャリアをスタート

永松さんのキャリアは主にフランス料理分野で構築されたと思うのですが、調理師学校卒業後のスタートは和食だったとか。何か意図はあったのでしょうか?
この世界に入る以上、いずれは独立して自分の店を持つことを目指していました。ただし、最初から分野を決めていたわけではありません。最初に考えたのは、どの分野で突き詰めるにしても、ちゃんとした賄い料理を作れるようになりたいということでした。それには日本人だし日本料理、和食がいいと。ただ、短期集中で身につけたかったので、学校の先生にお願いして北新地の超絶忙しい和食店を紹介してもらいました。料理人3人でカウンター7席と最大60名が入るお座敷個室、月に1千万以上売り上げる大変な店でしたので入って早々に脇板でした(笑)。ドアが開かなくなるくらいに生きた魚が大量に届くんです。あんこう?つるす場所無いのに・・・横にして何とかさばくか!と。厨房環境がどうとかいっていられないし、誰も何も教えてくれない。何とかしないといけない日々。大変だけど、だんだんと笑けてくる(笑)。今でも、実は肉より魚の扱い、さばきのほうが上手ですよ。
 
永松
それは技術もそうですが、自分で考えて何とかする力が磨かれますね。
当時、じかについてくださった先輩の方は、後に居酒屋でミシュランの星をとりました。久々にお会いしたのですが、やっぱりそのクラスの方ですね。当時から仕事ぶりが“えぐかった”(えぐい=関西弁で「凄い」の意)ですから。そういう環境での2年、きつかったけど楽しかったし、鍛えられました。
 
永松
 

知ろうとしないことは恥ずかしい

その後ホテルに就職し、進んだのはフランス料理の道でした。そこで記憶に残ることは?
当時、総料理長の方の身の回りのお世話役をすることになりました。総料理長がやってきたら老眼鏡、スポーツ新聞、薄い珈琲という3種の神器を出す。そして必ず3時のおやつを出す。このおやつを「毎日おまえがつくれ。毎日違うもので」と言われた。僕、忙しいわけです(笑)。ホテルの宴会対応もありますし。で、1カ月くらいで一度ギブアップしました。そのとき「辞めてもええよ。ただ、(辞める前に)どれだけ本を読んだか知らんが、知らないことは恥ずかしくないが、知ろうとしないことは恥ずかしい」と言われた。腹立ちましたので続けることに(笑)。そういうテーマを与えられ、ある種、強制的にやらされた時期がありましたね。
 
永松
そのときは「やらされた」ということですか?
そういうことです。でも、気がつくとそのパターンが体になじみ、「知らないことより、知ろうとしないことはどうやねん(だめだろう)」となってきた。それからは、自分で気になることは自分で勉強した。実際に使わない知識や技術でも、お披露目することさえないような知識もたくさん身につけた。チーズもかなり勉強し、ひそかにいろいろトライした。自分の引き出しの中には知識が入っていますが、お披露目する場はない。でも、気になることは貪欲に勉強してきました。
 
永松
確かに永松さんの引き出し、かなり多いと感じます。面白いくらい(笑)。
ヨーロッパから戻ったあとは、縁あって「料理のデザイン」の会社で仕事をしたこともあります。コンセプトに合わせて料理のイメージ図をつくったり、噛んだらカクテルになるような飴をデザインしてくれと言われてつくったり。そのデザイン会社がやっている飲食事業の調理部門の責任者になって企画から何からいろいろ扱った。すでに独立に向けて動いていた時期だったし、最初から2年限定で引き受けた仕事でしたが、楽しかったし、自分の引き出しにはその経験が入っています。
 
永松
 
永松氏の引き出しの多さには舌を巻くことも多いのですが、その源泉は貪欲に自分の知識や経験を増やしてきたところにもあることを実感しました。そんな永松氏の力は、運命の人との出会いによって揺さぶられ、影響され、結果的に独自のスタイル確立へとつながっていくことになります。次回はそんな「運命の出会い」の話を紹介します。