INTERVIEWインタビュー

第1回 起業を目指し、家業にたどり着く

一流料理人から高い評価を得ている“みやじ豚”。そのブランドを育て、今では各地の農業後継者をけん引する動きを見せる宮治氏ですが、かつては普通の「農家のこせがれ」。しかも跡を継ぐ気は全く無く、仕事を手伝うことさえ無かったそうです。そんな宮治氏が家業である農業、養豚業にたどり着いた歩みを伺います。

 

食アカな人

2020年9月23日 神奈川『株式会社みやじ豚』にてインタビュー実施

跡は継がねぇ!

宮治さんにとって「家業」である養豚業は身近な仕事だったと思うのですが、いつ頃からその仕事をご自身の生業として意識されるようになったのですか?
自分の中で決めたのは社会人2年目の秋です。それまでは全く考えていませんでした。
 
宮治
全く・・・ですか?
俺は・・・跡を継ぐ気はねぇ!と公言していましたから(笑)。今、一緒に働いている弟がいるのですが、彼に言わせると、大学生の頃の僕は「養豚場なんて継がないぞ」というオーラを出していたそうです(笑)。それを見た彼は「この仕事の跡を継ぐとしたら自分なんだろうな」と考えていたそうです。
 
宮治
当時の宮治さんにとって、養豚業は魅力的ではなかったということでしょうか?
畜産業や農業そのものに否定的な印象を持っていたわけでは決してありません。子どもの頃から豚舎が遊び場でしたし。豚舎の端から端まで走り抜け、驚く豚の反応を楽しむような毎日を送っていました。親しみもあったし、この辺りには農業を営む家が多いので、農業そのものには馴染みがありました。農業で貧しい生活をしたわけでもなく、否定的な印象を持つことはありませんでした。
 
宮治
でも、ご自身の仕事としては考えなかったわけですよね?
そもそも、親父から「農業では飯が食えなくなるから、お前は東京に出て働け」と言われていましたから。実際、親父は大きな養豚場の共同経営者として生活の糧を稼ぎ、僕たちを育ててくれていました。家業として経営している養豚場は小規模なものですから、僕たちがその跡を継いで食っていくには厳しかったわけです。ボソっと「継いでも継がなくてもどっちでもいい」と親父から言われたことがあって、今思えば、そこに親父の微妙な気持ちが隠れていたのかもしれませんが・・・そもそも親父は寡黙なタイプでしたから話をすることも少なかったです。
 
宮治
 

起業を目指して猛勉強

大学を卒業して就職されたのは人材派遣のベンチャー企業、株式会社パソナでした。
30歳までに“起業”したかった。そのためにベンチャー企業に入り、若くても裁量のある仕事を任せてもらえる環境で力をつけたかったんです。僕は歴史小説が好きで「この世に生まれた以上、天下を取りたい。今の世の中で一国一城の主は会社社長だろう。起業しなきゃ!」と(笑)。
 
宮治
そのための勉強期間ですね。
当時、毎朝早起きして勉強していました。方向性を定め、起業して結果を出すためには漠然と働いているだけではダメだと思いました。新卒1年目は毎朝4時半起床。2年目以降も朝5時半に起床。目を覚ましたら経営者の話をテープ早回しで聴き、シリアルを軽く食ったらMDに入れている講演を聞きながら出発し、電車の中では日本経済新聞を読む。すると6時45分には会社オフィスの最寄り駅に到着します。カフェが開くまでの15分間は立ったままでビジネス書を読み、開店同時にお店に入り、始業までは「自分の時間」を使う。そんな毎日をほぼ欠かさずに繰り返しました。そして仕事が終ると大きな書店に立ち寄り、自分の琴線に触れる本を見つけては購入し・・・という日々でした。
 
宮治
当時、独学で学ぶ以外にも何かされていたのですか?
優秀な人たちとの接点を積極的につくっていました。大前研一氏が創設した「一新塾」という社会起業・政策関連の学びの場があるのですが、そこに入会しました。すると、1か月後に大阪転勤。それならば塾の大阪展開・立ち上げを手伝ってくれという話になり、気がつくと僕が大阪で塾の説明会をしていました(笑)。おかげさまで、大阪の元気の良い人たちとつながることができました。起業を目指す身として、力を磨き、人とのつながりも増えていく貴重な機会をいただきました。
 
宮治
 

キーフレーズが閃き、家業にたどり着く

その日々を通して「農業、畜産業、家業」にたどり着いたわけですね。
はい。実は2年目の秋に閃きがありました。今も掲げるキーフレーズ“一次産業を、かっこよくて・感動があって・稼げる3K産業に”という言葉が閃いたとき、漠然とした起業準備が、具体的な目標実現に向けての明確な準備、助走に変わりました。
 
宮治
宮治さんがずっと提唱してこられたフレーズであり、名刺にも書かれている言葉です。
農業を営む家で育ち、家業を持つ自分だからこその「起業」の切り口でした。僕は自虐ネタとして「農業はキツイ、汚い、カッコ悪い、臭い、稼げない、結婚できない・・・6K産業だ」と言ったりするのですが、それは冗談です(笑)。本当は真逆です。とても魅力的な仕事にできるはずなんです。当時、農業について勉強する中で構造的な課題と思われることにもたどり着きました。その解決をしながら頑張ろうと決心し、実家に戻る決心をしました。
 
宮治
目標が定まると、毎日の意味合いが変わったのではないですか?
はい。勉強テーマの焦点を絞ることもできますし、何よりも毎日が自問自答の繰り返しになりました。本当に農業で食えるのか?これから先もやっていける仕事なのか?そもそも自分に農作業ができるのか? でも、結論は「やってみないとわからない」でした(笑)。
 
宮治
学生時代も家業の手伝いをしていなかったそうですし、想像するにも限界がありますね。
そうなんです。頭で考えられること、例えば「事業計画」のようなものは描いてみましたよ。バーベキューで一人4千円、30人集めれば12万円の売上。経費をひいて手元に3万円残れば俺は生きていける。実家に住めば家賃、食費もタダになる・・・それが当時の僕の事業計画の全てです(笑)。いや、それは事業計画じゃないでしょ(笑)というレベルですが、当時はそれくらいしか考えられなかったわけです。そこから先は一歩踏み出さないとわからない。27歳の時に会社を辞めて実家に戻りました。
 
宮治
 
最終的に「家業を継ぐ」という道を選んだ宮治氏ですが、スタート地点では「継がない人生」を歩もうとし、起業準備に専念していました。起業に向けて徹底した自己管理と目標達成への努力を継続し、見つけ出した答えは「家業」だったわけですね。次回は、家業に戻ると決めた宮治さんの動きに迫ります。